10/7
台風はスー父を連れて逝ってしまいました
病名は中咽頭癌
5月の連休明けに診断されて
5ヶ月にも満たない短い闘病生活
手術をするために
抗がん剤治療を続けていたけれど
それを上回るスピードで
父の最期の瞬間の命の灯火さえ吸い上げて
癌は成長し続けていました。
検診も都合のつく日は全て付き添い
抗がん剤治療の入院のたび
2、3日に1回はお見舞いに行き
9月に病状が悪化してからは
週に4、5日、週末は姉と交代しながら
病院に泊り込み
そうして父と寄り添う日々は
物心ついて以来、もっとも長く
父と過ごす時間になってしまいました。
22年前。
わたしが6歳の秋に
母と父が離婚をし、
姉弟3人全てを母が引き取って以来
私は父とは離れて暮らしていました。
ただ、
「最低でも月1回は子供3人のうち誰かとは会うこと」
その約束が、
私たちを「親子」として繋ぎとめていたのです。
成長するにつれ、
部活などで忙しくなっていく姉、弟と比べ
文化部で土日が暇だった私が会うことが普通になっていき
そのせいか、父はとても私を可愛がってくれました。
私たちにはとても大きな嘘があったのだけど。
2人ともそれには目をつぶって。
短い親子の時間を2人とも
「良き父親」であろうと
「良き娘」であろうと
ずっとそんな努力をし続けていたような気がします。
だから、きっと私たちは
普通の親子以上に
色んな会話をしたし、
色んなところに行って、
たくさんの思い出を作りました。
寂しいのに寂しいと言えない人で
会いたいのに会いたいと言えない人で
いつだってそんな父が心配だった。
入院中、
「おまえ達がいなかったら、どうにもならなかったなぁ」
と、何度も言っていた父。
けれど
最初に病院から家族について聴かれた父は
「家族はいない」
そう答えたそうです。
でも、
確かにそれは合っていて。
一緒に暮らした記憶がほとんど無いぶん
「親子」という意識はあっても
「家族」という意識は低くかったのです。
けれど
容態が悪化してからの最後の1ヶ月は
姉、弟、2人の伴侶、そして私含めて
父に寄り添い
最後の瞬間も全員で見取り
そうしてようやく
私たちは
「家族」
になることが出来たような気がしています。
父が酔うたびに、何百回とした陽水の話も。
毎年恒例になっていた、父の日ドライブも新年会も。
もうこの先は無いのだと。
何度確認をしても嘘みたいで。
それでも
この別れが父にとって
安らかなものであったと
新しい始まりなのだと、今はただ信じて。
父は
優しくて
ロマンチストで
博識で
プライドが高くて
理屈屋で頑固な文学青年が
そのまま大人になったような人で
色んなことに敗れて、逃げ続けた人でもあって
そのことを綺麗な嘘で覆い隠していて
それにひどく傷つけられたりもしたけれど
そんな狡さも弱さも含めて
私は父が大好きでした。
とても
とても
大好きでした。